第3話 「RAKUDA」山下三奈さん
- somarushouhei
- 7月16日
- 読了時間: 13分

今回のインタビューは、栃木県那須塩原市でパン屋さんを営む、RAKUDAの山下三奈さんです。
三奈さんは、自家培養の酵母と国産小麦を中心に、オーガニックな素材を使ったパン作りをされています。小さな工房で一つひとつ丁寧に焼き上げるパンは、イーストを使わず、時間をかけて発酵させた自家培養酵母が特徴です。今回は、三奈さんの生い立ちから、現在の活動までインタビューしてきました。
―生い立ちについて聞かせてください
栃木県那須塩原市(旧・黒磯)の出身です。
幼い頃は、人見知りがとても激しくて…。三奈という名前の「三」は、おじいちゃんの三郎からもらった漢字なんですが、おじいちゃんとさえ、まともに話せないような子でした。その頃、『キャンディ・キャンディ』が大好きで、将来の夢は看護婦さんでした。
高校生になって進路を考えるようになった頃、幼い頃からずっと好きだったクレイアニメを「自分でもやってみたい」と思うようになりました。ちょうど姉が音響系の専門学校に通っていたので、その先生に相談してもらったんです。
すると、「これからはCGの時代だよ」とアドバイスされて・・・。
その時、写真部に所属していたこともあって、写真学科のある大学へ進学することになりました。
―たしか、パン屋さんをする前はゲーム会社で働いていたとききました。
そうなんです。大学で就職活動をしていた頃は、ちょうど「就職氷河期」真っただ中。
いくつも履歴書を送っても、なかなか内定がもらえませんでした。
友達に相談したら、「企業で写真をやるにはチームプレーが大事だから、コミュニケーション能力が必要だよ」って言われて…。
自分の履歴書を見返したら、自己PR欄に「人付き合いが苦手です」って正直に書いてあって(笑)。
「こんな感じでは、写真で生計を立てるのは難しいかも…」と思って、4年の夏からCGの専門学校にも通って、
何とか就職にこぎつけました。入社したのは、ゲーム会社のCGを担当する部署でした。
◆実家に戻ってから、ふと思い浮かんだ仕事がパン屋さん

―パン作りをはじめたのはいつですか?
ゲーム会社で働いていたのですが、ちょうど契約が切れるタイミングで、母から「介護が大変だから、戻ってきて手伝ってほしい」と懇願されたんです。
正直、「えっ、私が?」という気持ちもありました。でも、家族の中で車の運転ができるのが私だけだったこともあり、実家に戻ることを決めました。
帰省後は、大学教授の秘書として働いたりもしていたのですが、その仕事がどうも自分には合わなくて…。
「次は何をしよう」と考えたときに、ふと思いついたんです。「そうだ!パン屋さんになりたい」って。
―突然、パンですか……?
はい、実は私、パンが大好きだったんです。特別こだわりがあったわけではないんですけど、暮らしの中にある身近なものを自分の手で作れるって、素敵だなと思って。「どうせだったらやってみたい」っていう気持ちが芽生えました。
とはいえ、そのとき私は25~26歳だったかな。まったくの未経験だったので、その年齢で雇ってもらえるパン屋さんには、なかなか出会えなかったんです。
それで、「まずは販売からでも」と思い、那須にあるパン屋さんで働き始めました。
そこの店主は、昔ホテルサンバレー那須でパンを焼いていた職人さんで、販売だけでなく、製造にも携わらせてくれたんです。パン作りをしていくうちに、「私も、もっといろんなパンを焼いてみたい」と思うようになって――それで今度は、実際にサンバレー那須のベーカリーで働くことになりました。
―天然酵母(自家培養酵母)のパンをつくるようになったきっかけは?
サンバレー那須のベーカリーで働いていたとき、一緒に働いていた三紀さんという方が天然酵母のパンを作っていて、その方が焼いたクロワッサンを食べたんです。
もう、本当に感動する美味しさで。香りがまず全然違うし、「なにこれ、めちゃくちゃ美味しい!」って。
そのとき、「私もやってみたい」と思ったのが、自家培養酵母への最初のきっかけです。
サンバレーでは、空いた時間に試作してもいいことになっていたんですが、私は下っ端だったので遠慮してしまって、なかなかできなくて…。
だから、休みの日に試作したり、仕事を辞めてから子どもが生まれたあとに、少しずつ取り組み始めました。
◆夢をかなえる背中を子どもに見せたいとはじめたパン屋

―子育て中にパンを焼いていたんですね?!
そうなんです。仕事を辞めていたので、家にいる時間が増えて「もう一度パンを焼いてみよう」と思い立ち、天然酵母でのパン作りを再開しました。おいしく焼けた時は、友達にお裾分けしていたんです。
するとそのうち、注文を受けるようになって、しばらくは頼まれて焼くことを続けていました。
そんな流れの中で、周りから「パン屋さんをやればいいのに」と言われるようになったんです。
でも私は「いやいや、無理だよ…」と、ずっと言い続けていました。
そんなある日、――娘が4歳から5歳くらいの頃、車に一緒に乗っていたときのこと。
「大きくなったら何になりたい?」って私よく聞いていたんです。娘は、ピアニストとか忍者とかマイケル・ジャクソンとか(笑)とにかく夢がたくさんある子で、毎回答えが違って面白かったんですが……
その日は、娘が「私は何にもなれない……」って、めそめそ泣いていたんです。
理由を聞いたら、こう言ったんです。
「だって、お母さんはいつも“パン屋さんになりたい”って言ってるのに、なってないじゃん。だから、私も何にもなれないと思う。」って。
―それはショックでしたね。
周りにパン屋をやってほしいと言われてましたからね。
いつも「なんにでもなれるよ」と娘に言っているのに、自分は・・と思って。
それで決まったというか、「じゃ、お母さんやるわ!」と言ってパン屋さんをやることになりました。
といっても、すぐ自分のお店を持つまでには至らず、他のパン屋さんで修行して、それからです。

―ちょうどRAKUDAをやりはじめたのは、大日向マルシェが始まった年でもあるんですよね?
以前勤めていたパン屋は、小学校に通う子どもの迎えが難しく、行事に休みを合わせることもできそうにもなかったので、2011年の3月末で卒業を考えていました。
そんな折に起こったのが、東日本大震災です。仕事も、社会の状況も、家族も、そして暮らしそのものも大きく一変し、結果的に退職の時期も早まりました。
そこから「屋号を持って、自分のパンを焼く」という思いが、現実のものとして動きはじめました。
ちょうどその頃に「大日向マルシェ」が立ち上がり、私も参加させてもらうことになりました。
はじめはイベント出店と卸売りからのスタートで、店舗を構えたのは、それからもう少し経ってからのことです。

―当初は、手作りの石窯でパンを焼こうとしていたんでしたっけ?
そうなんです。震災で大谷石が崩れてたくさん集積所に集められているのを知って、使えないかなと。大谷石って蓄熱性が高くて石窯の材料にできるんです。で、行政に連絡して石をもらったのですが、放射能の問題が後からわかって。
アワーズダイニングの正遠さんにも手伝ってもらったのですが、大谷石も薪も放射能に汚染されていると気づいて、石窯をあきらめました。
―これもダメ、あれもダメ…。そういう流れのときってありますよね。
本当にそうなんです。今振り返ると、自分でも「打たれ強かったなぁ」と思います。
うまくいかなくても、「じゃあこうしてみようか」って、次のアイデアがどんどん浮かんできて。
だから、もらった大量の石も、最初は困ってしまったけれど、最終的にはちゃんと行き先が見つかって。アジア学院さんや、知り合いの方が引き取ってくれたおかげで、無駄にならずにすみました。
◆動画の配信で、やっと自分の仕事が伝わるように

―YouTube動画 「女性が一人ですべての製造・販売をするパン屋 | 一日密着取材 | 天然酵母(自家培養発酵種)によるパン作り」を観ました。
“REIYA Watanabe”さんが仕事場に来てくださって、前日の種継ぎや仕込みの準備から販売当日まで、私の仕事に密着して撮影してくださいました。
パン作りの仕事って、実は夜中の2時、3時にはもう始まっているんです。
でも、お店を開けるのは週に2〜3日だけなので、外から見るとナマケモノ。「趣味でしょ?」なんて思われることも少なくありませんでした。今回、動画で裏側を見てもらえたことで、「やっと仕事として伝わったな」と。ようやく理解してもらえた気がして、本当に嬉しかったです。
―動画には、ご家族の様子も映っていましたが、三奈さんの仕事を見てきた家族は、どんなことを感じているのでしょうか?
実際のところ、家事の合間や、寝る間も惜しんで作業をしていることもあって、家族から「どうしてこの仕事を続けているの?」と聞かれることもあります。
工房は3坪ほど。屋根も低いので、オーブンを使えば熱がこもってものすごい暑さになります。
それでもやめないのは、たぶん“意地”みたいなものがあるのかもしれません。
あるとき、息子が「お母さんがお空へ行ったら、僕が代わりにパンを焼こうかな」って言ったんです。
私は「自分のやりたいことをやったほうがいいよ」と答えました。
すると息子は、「そっか。お空でもパン焼いてそうだもんね」って。
――私のことを、きっとそんなふうに受け止めてくれているんだと思います。

続いては、三奈さんが大切にしているもう一つの取り組み。社会の中の小さな声にそっと寄り添い、想いを届ける活動です。
詳しくはこちらから

◆私の想いが、活動を通して届きますように。
―店頭で「THE BIG ISSUE」という冊子を販売しているけれど、それはどうしてですか?
気づいたら、担う役割になってきたってことでしょうか?
社会の抱える深刻な問題も、そっと伝えていきたいと思っているから、店頭に置いています。
これに気づくかどうかもわからないけれど、(パンのオーガニック表示とかも)わざわざ書くのも嫌だなぁと思うところがあって、こういった冊子を通して私の想いがちょっとでも伝われば良いと思うんです。
(※THE BIG ISSUE:ホームレスや生活困窮者の社会復帰や支援を目的としたストリート新聞。)
―少数派の声を届けるという意味では、今活動している「OUR VOICE MATTERS(私たちの声も大切)」にもつながる部分があるのでしょうか?
そうですね。私は今、「OUR VOICE MATTERS(私たちの声も大切)」という団体で、自分たちの街が少しでも良くなるよう、市民活動に取り組んでいます。
普段は、日常のモヤモヤを話す会。でもそこから一歩踏み出して、市議会の傍聴と見届けや、Instagramでの情報発信、オリジナルステッカーの配布、(政治と暮らしをテーマにした)映画の上映会などを企画し、政治が身近に感じられるような活動を進めています。
現在は、7月の参議院選挙に向けて、「選挙に行こう!」を合言葉に、投票率を上げるための呼びかけを行っているところです。
一人ひとりの声が、ちゃんと政治に届く社会を目指して、自分たちもできることから動き出しています。
―団体を設立したきっかけは?
「OUR VOICE MATTERS」のはじまりは、2年ほど前。友達同士2~3人で、日常の中で感じるモヤモヤを話す小さな場だったんです。暮らしの中で感じる「これっておかしくない?」「誰に聞けばいいの?」という疑問や不安を、誰かと共有する場でした。
団体として正式に立ち上げたのは、2024年。その年の2月に主催イベントを企画する話が持ち上がって、「OUR VOICE MATTERS(私たちの声も大切)」という団体名をつけました。
その後も、選挙の街頭演説を聴いていた人に声をかけたり、興味を持ってくれた方とつながったりして、今ではメンバーは6人になりました。
―6人という人数で落ち着いたのは、ちょうど良い人数だったってことですか?
そうなんです。6人は同じテーブルについたとき、意思を共有しやすい人数です。あまり大きな活動も望んでいないし、仕事や生活との両立が難しいので。
―ステッカーを6種類に増やしたと聞きました。かっこいいデザインですね。
ありがとうございます。選挙って、どうしても“堅い”イメージがありますよね。だからこそ、楽しげで思わず目に留まるようなステッカーでアピールできたらと思っているんです。
ちょうど、メンバーの中にデザインができる方がいて、「だったら作っちゃおう!」という話になって。4月の市議選は特に、新人候補も多くて、立候補者がたくさんいたこともあり、私たちの間でもかなり盛り上がったんです。
その勢いもあって、ステッカーのデザインも一気に6種類に増やしました。
―配布した結果はどうでしたか?
・・・それが、今回の投票率は過去最低だったんです。(※市制以来、初の40%を割り込んだ選挙。前回から2.93ポイント下落)
候補者が多すぎて選びきれなかったのかな?とか、公示から1週間では選ぶ時間も足りなかったんじゃないか?とか、いろいろ考えさせられました。
政治って、本当は自分の生活や日常とすごく関係があることだと思うんです。でも日本では、政治の話って“ご法度”みたいな空気がありますよね。さらに、公示から1週間という短さもあって、誰かと話す時間すら持てなかった。それが関心の薄さにつながってしまったのかもしれません。
―政治を考えるようになったきっかけはありますか?
子どもが生まれる前も、選挙には行っていました。ただ、正直なところ、そこまで真剣に候補者を選んでいたわけではなかったんです。
地元に戻って結婚し、子どもが生まれると、日々の暮らしの中で考えることがぐんと増えました。
最初に気になったのは、やっぱり「食べ物のこと」。自分の子どもには、体に良いもの、安全で安心できるものを食べさせたいという思いが強くなりました。
保育園に通うようになると、「六ヶ所村ラプソディー」や「ミツバチの減少」、そして「原発事故の問題」など、これまで遠く感じていたことが急に身近になっていきました。
“他人事”では済まされない現実があると気づいたんです。
安心・安全な野菜も、なかなか手に入らないし、誰がどんなふうに作っているのかも分からない。
そんな中で地道に活動している人たちがいる。その存在を知ったとき、「こういう人たちを応援したい」と強く思うようになりました。
もし子どもがいなかったら、社会のことをこんなふうに見直すこともなかったと思います。
―7月の参議院議員選挙に向けての意気込みやメッセージはありますか?
◆「政治の“せ”は、生活の“せ”」
みなさんの生活をしているうえで感じている“その思い”こそが、大切な声なんです。その声を届けるために投票へ。生活と政治はつながっています。だからこそ、自分の思いや考えに近い人・政党を選んで一票を託してほしいです。
ステッカーはONTARIO(板室)とRAKUDA(黒磯)の店舗に置いてあります。また、選挙前の大日向マルシェでブース出店をして、普及活動ができればと思っています。
(※ブース出展は終了しています)
―では、最後にパン作りの話に戻りますが、今後はどんなことを考えていますか?
体力が必要な仕事なので、これからも無理をせず、続けていけたらと思っています。
カンパーニュって「田舎パン」と訳されることが多いですが、もともとはフランスの“カンパーニュ地方のパン”という意味なんですよね。これから年齢を重ねて体力的にきつくなってきたら、「地元のカンパーニュ専門」という形でもいいのかなと思っています。
私は、“カンパーニュ=地元のパン”という考えに惹かれていて、実際にお店でも、カンパーニュだけは栃木県産の無農薬小麦を使って焼いているんです。塩以外はすべて、この地域でとれたもの。
だからこそ、大切にしていきたいし、この土地の恵みでパンを焼いていく、そんな活動をこれからも続けていけたらと思っています。

文:アトリエどんぐり 日向野真知子
写真:ATELIER SO_MARU 金井翔平
編集:梨本あぶらや 鈴木朝子
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